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宗徧流

宗徧流時習軒(そうへんりゅうじしゅうけん)は、

千利休の孫千宗旦の高弟、

山田宗徧を流祖とする宗徧流の分家であり、

京都に発した茶道を江戸庶民の中に生かし、育て、

完成させた真の江戸の茶道である。

​時習軒とは

宗徧流時習軒は、千利休の孫千宗旦の高弟であった山田宗徧(一六二七~一七〇八)を流祖とする宗徧流の分家である。

三州(現豊橋)吉田城主小笠原忠知は、利休自刃後、華美・驕奢に流れた茶道を憂い、本来の侘び茶を慕い、宗旦こそ精神的茶を求める真の茶人であるとし、彼を京都より茶頭として迎えるべく、懇請したが、宗旦は高齢がゆえに、自分の高弟である宗徧を替りに推挙した。

 

宗徧は、明暦四年、小笠原侯の要望に応え三州吉田に赴任、以来四十三年間、四代にわたり小笠原家の茶頭として仕え、宗徧流を興した。

 

晩年、小笠原家の武州岩槻への国替えを機に江戸へ下り、隅田川のほとり、本所に居を定め、大名他、多くの江戸庶民に宗旦直伝の侘び茶を伝えたが、庶民の中には著名人も多く、吉良上野介は、茶友の一人であり大髙源吾はその門人であり、義士討入前夜の本所松坂町吉良邸の茶会の話は余りに有名である。

 

宗徧は、江戸に下ると同時に自分の分身とも云える高弟であり財政面の後援者でもあった岡村宗伯(名=重勝一六七三~一七三四)に二世を譲らんとしたが、宗伯がこれを固辞したため、孫娘婿宗引に二世を譲り、宗伯には「時習軒」「雨雪庵」の称号を与え、分家独立を認めたのである。

 

爾来「時習軒」は三〇〇年余、本家宗徧流との秩序をわきまえつつ、その独立性を堅持、その後、維新の折、ゆえあって七世宗賀の室、水月尼の高弟であった細田一族の者が軒号を継承、以降代々細田家(菓子商榮太樓当主)によって引き継がれ、今日に至っているのである。

時習軒の茶の姿は、ともすれば華美、金権に流れ、道具を競い、売名、宗匠商にはしり、私利私欲を図るなどの風潮をもっとも嫌った茶祖宗旦、流祖宗徧、宗伯の心を、大切な茶人の心として孤高を保ち、その派手さを好まぬ質実な点前に見られる如く、忠知侯の慕った侘び茶を真髄としているのである。

 

また一方、京都に発した茶道を江戸庶民の中に生かし、育て、完成させた真の江戸の茶道であることも一つの特徴と云えよう。

時習軒

流名の由来

宗徧の「宗」の字は、宗峰妙超大燈国師が開かれた古格慣例による。

「徧」とは「円満周徧」即ち仏性があまねく行きわたるの意。

流祖山田宗徧の戒師、大徳寺第百九十五代翠巌和尚が「宗徧」の名を選ぶ。

軒号の由来

論語第一編・第一章「学而第一」の言葉

「子曰く 学びて而して時に之を習う 亦よろこばしからずや

朋遠方より来たる有り 亦楽しからずや(後略)」

の「時習ㇾ之」より取ったものである。

時習軒
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